大内 義隆(おおうち よしたか)は、周防の守護大名・戦国大名。周防大内氏の第31代当主。
本姓は多々良氏。家系は百済聖明王の血をひく渡来氏族の系譜をひく周防国の在庁官人・大内氏。周防・長門・石見・豊前・筑前守護職。
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父は大内義興、母は義興の正室である内藤弘矩の女。正室は万里小路秀房の女・貞子。実子に大内義尊、問田亀鶴丸。養子に大内晴持、大内義長、尾崎局(毛利隆元正室)。幼名は亀童丸。官位は従二位兵部卿・大宰大弐・侍従。
永正4年(1507年)11月15日、周防・長門の太守で、大内氏の第30代当主である大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。
元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524年)には安芸に出陣する。岩国永興寺から厳島へ入り、陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月には尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。
享禄元年(1528年)に父が死去したため、家督を相続する。
勢力拡大 [編集]
享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を賭けて、豊後の大友氏や筑前の少弐氏と対立する。そして家臣の杉興連・陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めさせた。そして肥前の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし、杉興連に命じて行なわせた少弐氏攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫し、失敗に終わった(田手畷の戦い)。
天文元年(1532年)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、長府に在陣し、義隆は名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。
天文3年(1534年)、龍造寺家兼と密かに結んで少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。興房に命じて大友氏の本拠である豊後を攻略しようとするが失敗(勢場ヶ原の戦い)する。この年には後奈良天皇の即位に合わせて2千貫を朝廷に寄進して、翌年に大宰大弐の叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、金銭で官職を買う義隆の姿勢に釈然としないものがあったらしく1日で取り消されている。
天文5年(1536年)、漸く大宰大弐に任命され、大義名分を得た義隆は9月には少弐資元を肥前多久城に討って龍造寺氏とともに少弐氏を滅亡に追い込み、北九州平定をほぼ完成させた。このとき、龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。
天文6年(1537年)、将軍・足利義晴から幕政に加わるように要請を受け、京都への上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、さらに領国経営に専念するために中止した。このころ、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。また、宿敵であった大友義鑑とも和睦している。
天文9年(1540年)には、大内氏の従属下にあった毛利氏を尼子詮久(経久)が安芸へ侵攻し、毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶隆房(興房の子、後の晴賢)を総大将とした援軍を送り、尼子軍を撃破する。以降は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541年)には、尼子方の国人である安芸武田氏・友田氏を滅ぼして安芸を完全に勢力下に置いた。